私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み

12.分院の任期を終えて米国へ

 大学病院長町分院は3つの内科が交替で担当していたが、その任期がきたのでどうしようかと思っていたら、山形敞一助教授より米国科学アカデミーで自然科学の各分野から1名づつ計5名の研究者の募集があることを知らされ応募した。夏に米国大使館と学術会議で面接を受け、9月20日頃に招聘がきまった。洋行は幼いときからの夢だったのでそれが実現したこと、家族の旅費も保障されたことで、喜びと期待で一杯であった。
図1

図2

図3
 研究先はペンシルベニア大学内科の Francis D. W. Lukens 教授のところにした。ルーキンス教授は糖尿病にしたイヌの副腎摘出で糖尿病が軽快すること、膵部分切除したネコにぶどう糖液を8時間毎に腹腔内注射を3週間連続すると、膵島β細胞が水腫変性を起こして糖尿病になることなどの業績で有名であった。東北大学第3内科の吉川清彦博士はぶどう糖の連投で糖尿病にする実験を追試していたのでよく知っていた。その頃は、ミンコウスキーにはじまる実験的糖尿病の研究はもっとも輝いてみえる業績に思われた。ルーキンス教授からも受け入れる手紙が届いた(図1)。
 2002年に日米フルブライト交流50周年記念切手が出たが、これは1952年にフルブライト上院議員の、余剰物資を払い下げた代金の一部をその国との学生、教授、研究員などの交換留学の旅費に当てるという政策によるもので、これから留学が急に増加した。とは言っても留学希望者の数からみれば、少数であった。外貨の持ち出し制限のあった時代で500ドルしか持ち出せず、日本円を送ることも出来なかった。1ドル360円のレートで闇ドルは400円であった。当時の筆者の講師の月給は3万円位だったので80ドルにしかならず週給にしても安い額であった。高等学校の寮の後輩の佐々木陸郎君がアイオワ大学で5年間心臓学の研修をして帰国したので米国の生活事情を教えてもらった。日本のバスには運転手のほかに車掌がいて乗客が乗る毎に切符を切っていたが、アメリカでは車掌なしでトークン(代用貨幣)を入れてから乗ることや、多くが自動販売であることなどを知らされた。日本の街には自動販売機がまだ1台もなかった。
 地方紙には出発日時の記事まで出たので、11月29日朝の仙台駅2番線プラットホームは見送り下さる人達で溢れた(当時はそれが普通のことであったが、感激であった)。
 12月1日ノースウエスト DC6B 機(87人乗り)で羽田を出発した。4発のプロペラ機でエンジンから時々火を噴きながら、初冬の月明かりに映える雲の上を飛んだ。しばらくしてから、嵐のため着陸するとのアナウンスがあり真冬の飛行場に降ろされた。太平洋戦争で日本軍が最初に玉砕したアッツ島のすぐ東のセミチ諸島のシェミヤ基地であった。10時間以上も嵐の晴れるのを待ってシアトルに向かった。空港には米政府の人が出迎えてくれた。同級生の桂重暉博士の家で積もる話をして一泊し、翌朝 DC6C 機でワシントンに向かった。

図4 双発の DC6C 機
スポケン空港で撮影
 スポケンを経てロッキー山脈の上空に差しかかった。南北に連なる荒々しい山なみが現れた。雪の積もっている山々も見えた。飛べども飛べどもつぎつぎに山脈が現れてくる。ようやく山脈の裾野が拡がって、今度は見渡す限りの平原になった。グレイトプレーンである。快晴の日の昼すぎであったが果てしなく拡がっている太平原の地平線はもやの中に消えていた。大陸の大きさに感嘆しながらセントポールを経て平原が少しづつ暮れてゆくのを眺めていたが、12月の日没は早く、すっかり暗くなってワシントンの空港に着き、バーリントンホテルに5日間泊まることになった。
 ワシントンはもはや戸外は刺すような寒さであったが、公園にはリスがいて心をなごませてくれた。
 科学アカデミーではコルビー博士が親切に手続きの話をしてくれロータリークラブのバッチのような国際交流局のバッチをもらった。それからインターナショナルハウスでアメリカの歴史や日常生活、チップのことまで2、3日のオリエンテーションを受け、国会議事堂やマウント・バーノン、アーリントン墓地などを案内された。アーリントン墓地には硫黄島で兵士が星条旗を立てる像ができていて、戦に敗けたことを改めて感じられた。
図5 ルーキンス教授

大学病院の通りで
1958年12月30日撮影
 ワシントンのユニオンステーションからペンシルベニア鉄道でフィラデルフィアに向かったが列車の中では何のアナウンスもなく、アナウンスの多い日本の国鉄に馴れてきた身には不安であった。3時間ほどでフィラデルフィアの32番ステーションに着いた。ホームに降りたらルーキンス教授がテクニシャン2名と出迎えてくれ、当座の生活ができるように指示してくれた。これには大層助かった。後で教授はクエーカー教徒と知りその親切が納得できた。このときのありがたさは忘れられず、後にブラジルや中国からの留学生が仙台の教室に来たとき、同じように面倒をみてやった。そのときの彼等の笑顔をみて教授に恩返しできたと思った。

(2003年12月03日更新)

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