2003年10月に富山県の高岡市立高陵中学校3年の西田圭吾くんが自分史を書き、全国小・中学校作文コンクール県審査で最優秀賞を受賞されました。さらに、第53回全国小・中学校作文コンクールにおいて3万527編の応募のなか、最高賞の文部科学大臣賞に次ぐ「読売新聞社賞」に輝きました。
 作文には、1型糖尿病患児の思いや願いがとてもよく表現され、とくに「糖尿病はインスリン注射を打つだけ」と前向きにとらえ、「自分の個性」として考えられるようになるまでの思いを綴っておられます。
 小児とその家族のみならず、ぜひ全国の方々に広く伝えたいと思います。受賞を伝える新聞記事と、作文の全文をここに掲載いたします。


読売新聞(富山県版) 2003年(平成15年)12月5日



西田君(高岡市立
 高 陵 中 )
が読売新聞社賞

全国小・中学校
作文コンクール
 坂本さん、四方田君も入選

病気は「個性」 淡々とつづる

 第五十三回全国小・中学校作文コンクール(読売新聞社主催、文部科学省、各都道府県教委後援、日本漢字能力検定協会、JR東日本・東海・西日本協賛)の中央審査結果が四日発表され、県内からは、高岡市立高陵中三年の西田圭吾君が「病気は友達―自分を輝かせて生きる―」という作品で、最高賞の文部科学大臣賞に次ぐ読売新聞社賞に輝いた。
 また、小学校低学年の部で富山市立広田小二年の坂木萌愛さん(作品「二人でおふろ」)、同高学年の部では同市立新保小五年の四方田春樹君(作品「ぼくにもできる」)が、それぞれ入選となった。四方田君は、四年連続で中央審査入賞の快挙。
 表彰式はあす六日、東京都内のホテルで行われる。読売新聞社賞を受賞した西田君に喜びの声を聞いた。

「エピソード集みたいな作文だったから、落ちるのが確実だと思っていたので、びっくりした。表彰式で東京に行けるのはうれしい」と、受賞に驚く。
 十一歳のとき、学校の尿検査の結果から受診することを勧められ、インスリンを分泌する細胞が破壊されることで起きる「1型糖尿病」と言われた。以来、自分でインスリン注射をする毎日。受賞作は、病気を「個性」と考えられるようになるまでの思いを、入院生活や家族、友達の反応、血糖値が下がって動けなくなったことなどの出来事を通じて淡々とつづっている。
 自分の性格を「楽天的」と分析し、病気も「注射を打っていけばいいだけ」と前向きにとらえている。中学入学後には、サッカー部や、生徒会の応援団でも活躍した。
 指導した飯田雅絵教諭は、受賞の知らせに本人より驚き、「作文を通じて、家族や周囲の友達に目を向けることができたと思う。自分のことを隠さずに書き出したことが評価されたのでは」と目を細めた。

病気は友達―自分を輝かせて生きる―

高岡市立高陵中学校3年 西田 圭吾

 ドン、ドン、ドン……。
 僕のたたく太鼓に合わせて、応援団員が勢いよく走り込んでくる。太鼓の音と応援団のエネルギッシュな声が、グラウンドいっぱいに響く。
 僕は今年、応援団員になった。僕の担当は太鼓。太鼓は僕だけだから、とても重要だ。太鼓の練習で、両手にはマメができて固くなっている。もう一ケ月近く練習しているからなぁと、練習の合間に手を見て思う。
 しかし、僕の手のひらには、それとは違う固い部分がある。左手の中指と人差し指の先。他の人にはない固い部分。これこそ、僕が僕であることの証〈あかし〉なのだ。一日に何回もする血糖測定が残した跡だ。
 指先を見つめていると、数日前、担任の先生が、将来の夢について聞いてきたのを思い出す。僕は
「生きていたい。」
と答えた。先生はあっけにとられて、二の句が継げない様子だった。僕の答えに不服そうな先生を尻目に、「僕の正直な気持ちなんだから、しょうがないだろ」と、心の中でつぶやく。僕は、本当に生きていたいのだ。

 僕が「生きること」の大変さやその大切さについて考え始めたのは、十一歳の時からだ。
 そういえば、あの時も運動会の応援団をしていた。張り切って活動している最中に、病院に連れて行かれた。
 学年のはじめにいつも実施される尿検査で「尿糖プラス三」という結果をもらい、精密検査をした。「どうせ、何かの間違いだろう」と、軽い気持ちでいた。けれど、僕の気持ちとは裏腹に、病院では、どんどんすごい検査になっていった。尿検査をはじめとして、レントゲン検査、血液検査と、自分でもびっくりするくらい検査をした。そこまでしても、まだ僕は「間違いじゃないの」と思っていた。
 僕に告げられた病名は「1型糖尿病」。
 自覚症状は全然なかったので、自分が病気であるとは信じがたかった。一緒にいた母も、信じられないといった表情だった。
「1型糖尿病」は、十万人に一人から二人という確率で起こる病気である。何かのウイルスが膵臓に入ってインスリンを分泌する細胞をこわすことによって発症するものだそうだ。「1型糖尿病」は、脳死膵臓移植、膵島移植を受けるか、生涯にわたって血糖測定を行いながら、インスリン自己注射を続けるしか治療法はない。
 そのことを聞いても、小学生だったせいか、あるいは、生来の楽天的な性格のせいか、今、自分の身にふりかかっている一大事に対して、「ふぅーん。そうなの?」ほどの気持ちしか起こらなかった。
 しかし、両親にとっては目の前が真っ暗になるような衝撃的な出来事であった。
「昨日まで、みんなと何一つ変わらない生活をしていた子が、何で?」
「どうして我が子が病気に?」
「育て方に何か問題が?」
「親が悪いの?」
などなど、考えても考えても答えの出ない疑問が、頭の中を四六時中渦まいていた、そんな思いに押しつぶされそうな日々だったと、後になって話してくれた。また、小学校の先生をしている母は、職場で接する僕と同じ年齢の元気な子供たちと、一生注射を打ち続けなければならない僕とを比べ、涙ぐんだことも度々あったそうだ。(僕の前では涙は禁物と、随分こらえていたらしい。)
 僕は、平成元年一月十九日午後一時二十一分に、体重・三千百十五グラム、身長・四十九センチというどこにでもいる普通の男の子として、T病院で生まれた。当時、我が家は曽祖父母、祖父母、両親、兄姉という大家族だった。そこに僕が加わったのだが、末っ子だったため、みんなにかわいがってもらった。はしかや水痘症など、一般的に子供がかかる病気はしたが、何事もなく育って大人になる予定だった。その予定も、この日から大幅な変更を余儀なくされた。
 僕は、早速、入院することになった。病院は僕が生まれたT病院。僕にとって入院は、実は初めてではなかった。三歳の時に喘息になってから、一年に最低でも二回は入院していたのだ。まだ幼かったので、病院には母か祖母が必ず付き添ってくれた。今から思うと、幼いときから家族に迷惑をかけ続けている。
 T病院での入院は、一ケ月ほどだった。あの時いた病棟は、新築したばかりだった。部屋の中は、汚れなど一つもなくきれいだった。だけど、やけにペンキくさくて、気が滅入りそうだった。窓から外の景色がよく見えたが、まぶしすぎた。
 入院中に血糖測定のしかたや注射の打ち方を教えてもらった。正直なところ、自分の体に針を刺すのは嫌だった。けれど、こうするしか治療法がないのだから、しかたがない。開き直ると人間は強いものだと思う。思い切って、指に針を刺した初めての血糖測定。針を刺した途端に血が飛び出して、近くにいた看護師の人にかかってしまった。血管が切れてしまったのではないかと、びっくりした。
 注射はスポンジに打って練習した。注射は最初から、わりとうまくできた。うまくできたからといって、嬉しいはずもない。複雑な心境だ。
 それ以外にはすることがなくて退屈だった。何を考えていたのか、何をしていたのか、思い出せない。寝てばかりいたような気もする。
 ただ覚えているのは、小学校の運動会を見に行ったこと。はっきり言って、つまらなかった。
 あのとき見たリレーは、忘れようにも忘れられない。「入院さえしていなければ、僕もリレーのメンバーに選ばれていたはずだ。みんなと一緒に、このグラウンドを疾走していたんだ。」という思いがこみ上げてきた。
 少し前まで一緒に活動していた仲間と同じ場所にいるのに、妙に自分だけみんなから浮いている感じがした。「退院して、この中にちゃんと入っていけるのだろうか」という思いが、ふとわいてきた。僕の周りに目に見えない壁があり、友達に近づけないような気がした。
 しかし、僕のそんな思いを小学校の先生がなくしてくださった。それは、何度も病院に来てくださったからだ。ある時は、病院の中の教室で授業をしてもらった。クラスのみんなからの手紙をもらった時もあった。僕一人のために、たくさんの人が心配したり、応援したりしてくれているんだと実感した。
 入院して一ケ月が過ぎようとするころ、担当の医師に
「金沢に糖尿病の専門の先生がいるから、そこへ行きなさい。」
と言われた。それでK病院へ移ることになった。
 ここには二週間ほど入院したが、ほとんど「1型糖尿病」についての勉強だった。この病気はどんな病気であるかということを教えてもらったり、血糖のコントロールをよくするのに、何かスポーツをすればいいというアドバイスを受けたりもした。看護師の人はとても親切で、いろいろなことを詳しく教えてもらえた。
 また、僕だけでなく両親も、「1型糖尿病」のことを勉強した。主治医のK先生の、
「この病気は治らないけれど、注射さえしていけば、普通の子供と同じように、生きていける。」
という言葉に勇気づけられたそうだ。僕も、看護師の人から同じようなことを聞き、気が楽になった。それで僕は両親に、
「注射打ってけば、いいがいろ。」
と言った。注射さえすれば、今まで通り生活していけるという思いで、何気なく言った言葉だったような気がする。でも、これが僕の新しい生活のスタートとなった。
 退院して久しぶりに行く学校。行ってみると友達が集まってきた。
「ずっと、何、やっとったがよ。」
「毎日、注射打たんなんって、ほんまかよ。」
と、興味津々に質問してきた。その日だけで同じ質問を何回も受けて、とても困った。
 T病院に入院中、僕はクラスのみんなに手紙を書いた。
――僕は、病気のため毎日注射を打たなければなりません。それに、指から血を出さなければいけません。――
という内容のものだった。先生から書くように言われたのだが、病気の僕がスムーズに学校生活を送れるようにとの配慮だったようだ。それでも、血糖測定をしたり注射を打ったりする僕は、みんなの注目の的だった。クラスメートの好奇の眼差しの中でするのは、とてもやりにくかった。放っておいてほしかった。
 だんだんみんなの視線や質問に慣れてきたころ、学校で初めての低血糖になった。頭がボーっとしてきて、明らかに自分が今、低血糖であることが分かった。補食をとらねばならない。
 そこで、みんなの前で補食用に持ってきていたビスケットを食べ、ジュースを飲んだ。その時周りにいた友達は、口々に同じ言葉を言った。
「いいなぁ」
 その反応に結構困ってしまった。友達は、うらやましそうに僕を見る。でも、仕方ないのだ。血糖値を上げるには、ものを食べるしかない。友達の視線を気にしながら飲み食いすることが、その後も何度かあった。
 もう一つやっかいなのは、給食を食べる前に、必ず血糖測定をしなければならないことだ。その血糖測定の時も、
「うわっ。ぜってぇー(絶対)、やりたくねぇし。」
と当たり前のことを言われて、ちょっと腹が立った。僕だって好きでやっているわけではない。自分の指に針を刺して血を出すなんて、誰がしたいだろう。やらなくていいなら、絶対しない。誰かにこの気持ちをぶつけたくてたまらなかった。
 しかし、慣れてくるとみんな何も言わなくなった。そのおかげで、授業を受けながら堂々と補食をとることも出来るようになったし、血糖測定も静かに出来るようになった。
 そのころから、友達と保健室によく遊びに行くようになった。その時の保健の先生が感じのいい先生で、僕の病気のことを何くれと気にかけてくださった。それで、友達も糖尿病について理解してくれるようになって、とても嬉しかった。
 学校が夏休みに入るとすぐ、「富山DM小児・ヤング合同サマーキャンプ」が行われた。僕は初めて参加するので、どんな人がいるのか不安だった。
 参加者の中に以前から仲の良かったT君もいた。T君は、僕が喘息で入院しているときに、いつも時を同じくして入院してきた。僕より二歳年上だったが、すぐに友達になることができた。病院の中では、ほとんど何をするにも一緒だった。看護師のお姉さんと遊ぶのも、研修医の学生をからかうのも一緒にやっていた。つまらなくて暗い入院生活のはずが、T君のおかげで楽しくいられた。
 T君の他にも僕と同じくらいの年齢の人がたくさんいた。年齢も近いことや感じのいい人ばかりだったおかげで、すぐにうち解けて仲良くなれた。中には僕と違う「2型糖尿病」の人もいた。(「2型糖尿病」とは、人によっては肥満などが原因でなるインスリンの注射をしなくてもよい糖尿病だ。)
 キャンプに来てみて、僕の予想をはるかに超える多くの人たちが参加していてびっくりした。糖尿病の人が僕のほかにもいるということが、これまで感じたことのない安堵感のようなものにつながった。
 参加者の人たちとの何気ない雑談が、一番心に残っている。学校生活の中で困ったことや、低血糖のとき学校でどのようにして補食をとっているか、友達は理解してくれているかなどを質問しあった。みんなも僕と同じようにいろいろな悩みや困った経験をもっているとわかった。参加者のみんなと過ごす時間は楽しかったし、とても勉強になった。
 夏休みの最後のほうに行われた「金沢サマーキャンプ」にも参加した。そこでも同じ病気の人と知り合うことができた。富山でのキャンプより、もっと多くの高校生や看護師の人とも仲良くなることができた。今年の夏でキャンプに参加するのは十回めになる。これからも、参加していくつもりだ。
 中学校に入学したら、また小学五年生の時のような質問攻めにあった。
「(低血糖の時は)食わんなんがいぜ」
「(注射を)打たんなんがいぜ」
などと簡単に答えておいた。友達は
「ふぅーん。」
と一言ですませてくれたが、不思議そうな目で僕を見ていた。
 これから環境がかわるたびに、こんな質問をされたらたまらない。答えるのが面倒くさい。少しいらだちのようなものを感じた。
 しかし、新しい仲間と出会ったら、自己紹介をするのは当たり前のことではないかと考え直した。趣味や性格などと同じように、病気も僕の個性の一つなのだ、視力の悪い人が眼鏡をかけるように、僕はインスリン注射を打つだけのことだ。僕は病気のことも含めて、みんなに自分を知ってもらえばいいのだ。
 周囲の友達に僕のことを話した。ほとんどみんな、僕のことを理解してくれた。そのおかげで、中学校生活に対しての不安な感じはなくなった。
 部活動はサッカー部に入った。僕は全くの初心者だ。一緒に入部した連中は皆、スポーツ少年団に入り、少なくとも二年間はサッカーをしてきている。僕はただ小学校からの仲良しが多いというだけでサッカー部を選んだ。
 僕がスポーツ少年団に入っていなかったのは、病気が理由ではない。面倒くさがりの性格から、放課後や休日の時間を削ってまでスポーツをしたくなかったからだ。休日は、他のことに縛られたくない。自分の気の向くままに過ごしていたかった。
 それでなくても、僕には十分に制約があった。僕は食べ物をとる前に注射を打たねばならない。お菓子を食べたくなったら、注射のあとに食べなくてはならない。注射をそんなに打つのは嫌だから、食事の時に一緒に、お菓子類を食べるようになっていた。食事の直後だって饅頭ぐらい軽く食べられた。
 だから、低血糖のときはうれしかった。
「注射なしで、何か食える!」
僕の心がひそかに大喜びする。これはなかなか快感だ。しかし、これにも制約がある。低血糖の程度に応じた量しか摂取できない。それでも、やはりすんなりと食べ物にありつけるのはうれしい。
 キャンプの時は、友達と一緒に低血糖の状態をわざと作った。方法はいたって簡単。キャンプの時、ジャグジーがある。そこでひとしきり運動するのだ。すると低血糖になる。そして、補食(というと聞こえはいいが、実は間食)をとるのだ。
 低血糖は極めて危険な状態だ。夏休みの部活動中に、ひどい低血糖に見舞われたことがあった。
 そのときはスパイクを履いているときから、もう変だった。頭がふらふらしていた。部がいつ始まったか、自分が何をしていたか何も覚えていない。気がついたら、いつの間にか保健室のベットに横たわっていた。
 後になって副キャプテンのK君に聞いた話では、僕は部屋の前の地べたに寝転がっていたらしい。真夏の太陽が照りつけているのに、
「寒い。寒い。」
と、つぶやいていたそうだ。最初のうちは僕がふざけているのだと、みんな思っていたようだ。しかし、それから変な行動をし始めたのを見て、ただごとではないと思い始めた。僕は一人で空き缶を蹴ったり、友達が出す指に合わせて顔を動かしたり、「1+1=3〈いちたすいちはさん〉」などと言ったりしていた。それで先輩のY君が、
「やばいぞ。こいつ。保健室連れてったほうが、いいがじゃねぇがかよ。」
と言って、保健室まで連れていってくれたことが分かった。
 友達の機転と素早い行動で、僕はピンチから救われた。もし、僕一人だったらどうなっていただろうと思うと、今でもぞっとする。
 なのに二年生の宿泊学習で、僕は大失敗をしてしまったのだ。寝る前に打つ注射のノボ(持続型)と、ご飯などを食べる前に打つログ(超速効型)を、打ち間違えてしまったのだ。
 少しぐらいのことでは動揺しない僕も、このときばかりは焦った。心底、「やばい」と思った。低血糖になって死んでしまうかもしれないからだ。
 すぐに同じ部屋にいたM君に
「先生呼んできて!」
と頼んだ。部屋にあったコーヒーセットの砂糖を口に含みながら、持ってきていた携帯で家に電話した。電話に出た父が
「何で間違えたがよ!だらか!」
と怒った。電話の向こうで、何やら母とごちゃごちゃ言っているのが聞こえる。
「後からもう一回電話するから待っとれ!」
電話が切れた後、M君が先生を連れて部屋に戻ってきた。
「大丈夫?」
と心配そうな顔つきで言って、僕の前に先生が座った。
 その時、携帯が鳴り始めた。父からだった。
「補食とったか?」
と聞いてきた。
「砂糖を食った。四単位(三百二十キロカロリー)くらいとった。」
と答えた。
「N(ノボ)打って一時間ごとに(血糖値)を測れ!」
と指示を受けた。
 そのころになると、部屋に先生たちが集まってきた。自分がまいた種で、こんなに大騒ぎになってしまって、少し照れくさかった。先生たちは心配のあまり、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。僕ははずかしさもあって、
「注射を打ち間違えただけ。」
と、いとも簡単に答えてしまった。それに、こんなことは初めてで僕自身分からないから、質問されても答えられないというのが本当のところだった。
 それからもう一回電話がかかった。
「先生に替わって。」
と言われ、替わった。先生が何やら電話番号をメモしている。K病院の電話番号らしい。
「やっぱり、病院へ行かんなんかな?」
「おれ、どうなるがやろう?」
と、頭の中をいろんな考えがぐるぐると回っていた。
 夜も遅く眠いのだが、一時間ごとに血糖測定をしなければならないので眠れない。ぼーっとした頭で起きていたら、両親が部屋に入ってきた。まさか来るとは思っていなかった。正直、びっくりした。でも両親の姿を見たら、ほっとした。とたんに睡魔が襲ってきた。その夜のことは、はっきり覚えていない。一睡もせずに、両親や先生たちがそばにいてくれたこと、朝の七時くらいになって両親が帰っていったことは、うっすら覚えいる。
 かわりに脳裏に浮かんできたのは、宿泊学習前に行われた健康調査だった。「旅行中留意することや気がかりなこと」の項目は、細かい字でびっしりと書かれていた。
――「1型糖尿病」で、食事の前にインスリン注射が必要です。インスリン注射は自己管理できるようになっています。急がずしっかり自己管理するよう家庭で十分話しますが、旅行先でも、言葉かけをしていただけると助かります。また、低血糖の際には補食が必要です。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します。
 こんなに書かなくても、大丈夫なのにと思っていた。「治療中の病気」の項目に「1型糖尿病」とだけ書けば十分だろう。普段からちゃんと自己管理しているのだからと安易な気持ちでいた。
 しかし、両親がとんできたときの顔を思い出すと、そんなことを少しでも思った自分が情けなかった。普段とは違う環境の中での生活は、準備万端で臨んでも、なかなか予定通りにいかないものだ。両親は行く前から、そのことをわかっていた。だからこそ、あんなに書いたのだ。一文字一文字に両親の思いが詰め込まれている。本当は、あれくらいでは書ききれないくらい、僕のことを心配していた。何で今まで気がつかなかったのだろう。自己注射をして自己管理をしているから、僕の力だけで生きているかのような錯覚をしていたのだ。
 もう一つ反省したのは、注射が頼りの僕なのに、注射を間違えるようではダメだなということだ。自己管理はしっかりするように指導を受けてきていた。注射にも慣れて、自分は大丈夫と過信していたようだ。同じ部屋のM君としゃべりながら注射を打ったからだ。
 M君はびっくりしたに違いない。僕の部屋まで駆けつけた先生たち、コンビニへおむすびを買いに走った添乗員の人。そして、夜中に高岡から金沢まで車をとばしてきた両親。家にいて僕の容体を心配することしかできない祖父母。よいコントロールに努めるようアドバイスをしてくださる主治医のK先生。
 知っている顔がたくさん浮かんできた。僕はこんなにも多くの人に支えられて生きている。僕のことを自分のことのように心配してくれる人たちのために、こんな失敗は二度とするまいと思った。

 今年の五月、応援団を結成することになり、生徒会担当の先生から、
「応援団やってみんか。」
と声をかけられた。僕は仲の良い友達が、応援団にいたから、すぐに入ることを決めた。小学校時代にできなかったぶんも、やりたかった。
 応援団は総勢十一名。十一人で力を合わせ高陵中学校伝統の応援をする。練習をしていて気づいたのだが、団長をはじめとして団員一人一人が自分の役割を果たして、応援が完成する。誰かのテンポやタイミングがずれると、応援はだいなしになってしまう。特に僕は太鼓を受け持たせてもらったから、そのことの重要性を痛感できた。仲間と共に生きていくとき、一人一人が個性を生かして自分の役割を果たしてこそ、喜びや感動が味わえるのではないか。
 そして、担任の先生の問いかけに「生きていたい。」とだけ答えたが、もう少し付け加えねばならないと思い始めた。命を大事に生きていくことは、もちろん大切だ。だが、それだけではもの足りない気がする。
 本を読んでいたら、心ひかれる言葉に出会った。
「これ(車椅子であること)は、才能だ。」
 これは車椅子の人と健常者がバスケットの試合をして、車椅子の人のチームが勝ったときに言った言葉だ。一見、車椅子のほうがバスケットをするには不利に思える。しかし才能(個性)だと思えば、弱点ではなくなる。
 僕も、インスリンが分泌されないという体質をもっている。しかし、それは僕の重要な個性だ。病気は友達だ。うまくつき合えば楽しいし、いい加減なつき合い方をすれば関係は悪くなる。病気と一生仲良くしていきたいと思う。そして、こんな僕だからこそできること、僕にしかできないようなことをしたい。
 『心のノート』の中の一節が心に響く。
  もっともっと
  生きていることを実感し、喜びたい。
  そしてかけがえのない私の人生を、
  生命を
  もっともっと輝かせていきたい。

(第53回全国小・中学校作文コンクールにて読売新聞社賞受賞)



 

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