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エチオピアへの旅 1 [観光編 / 前編] 写真付

2004年11月
 今年の7月にガーナとエチオピアを旅行してきました。ガーナ編に続きエチオピア編をご紹介します。

■ エチオピア連邦民主共和国
人口:約6500万人
首都:アディスアベバ
アフリカ北東部に位置するエチオピアは、農業(メイズ、テフ、ソルガム、大麦、コーヒー等)を主要産業とする国です。1人当たり国民平均所得は100ドル。
エチオピアへ

 覚悟は決めていたとは言え、エチオピア航空の飛行機は、やはり時間通りには出発しなかった。時間通りに出発しないのなら、この時間をコルレブ病院で糖尿病患者たちと話をする時間に充てられたら、どんなに有意義だっただろうかと思いながら、免税店で土産物を見ながら時間を潰していた。

 免税店のレジ脇にチョコレートがあった。職場に配るために60個必要だったため在庫を確認すると、ここに並んでいる10個入り板チョコが8箱ということで、他にも配る先があったため結局余裕を見て10個入り8箱つまり80個全て買い占めてしまった。

 レジのお兄さんは、特に驚きはしなかったが、「日本で働きたいんだけど」という話になった。英語の他にフランス語ができるということである。私が独身であることを確認し、労働ビザを意識してか、積極的にアタックしてくる。私も割悪い気はしないのだが、現実を考えるとそれ以上に話を進めることはできなかった。

 話し込んでいるうちに時間が過ぎて、重いチョコレートを抱えながら飛行機へ乗り込んだ。カメルーンのドゥアラを経由し、エチオピアの首都アジスアベバへ着いたのは予定時刻よりも2時間以上遅れの夜11時半を回っていた。とにかく、明朝の出発が早いため出口へと急ぐと、エージェントの経営者ヤレド氏が迎えに来ていてくれた。少々小太りの立派な体格の人である。ホテルに向かう途中、エチオピアに来た目的を話し、夜遅くはなっていたもののアマレ先生にエチオピアに着いたら連絡することになっていることを説明すると携帯で連絡を取ってくれた。アマレ先生に「夜遅くなり申し訳ない」と謝りながら、エチオピアでの日程を確認し、翌々日に会う約束をし、アジスアベバに戻り次第また電話をすることにした。

 エージェントのヤレド氏は、34歳で、2型糖尿病患者だという。病歴は、ハッキリ分らないらしいが2年ほど前から病院で治療を受けているということである。母親も糖尿病だったらしいが、治療は特に受けていなかったということである。

 ここへ来る前にバンコクの空港でエルシド先生に会いエチオピアでは糖尿病の患者が年々増加しており、治療が追いつかないという話を聞いたと言うことを話したところ、「その通りだが、糖尿病患者はもともと多く存在しているものの、皆、治療を受けるだけの経済的余裕がないし、医師も糖尿病に関しての知識が無く、表に出てこなかっただけだった」という話であった。

 ヒルトンホテルのゲートに着くと検問があった。そして、入り口に着くと空港で飛行機に乗る前のような荷物検査とボディチェックがあり、金属探知機とX線検査を通さなければホテル内に入れないのである。空港以外でここまで、検査を受けたのは昨年パリの最高裁判所以来である。ものものしさに驚く一方で、これだけセキュリティーがしっかりしていればと逆に安心した。

 翌日は、朝5時半出発と言うことで、朝食はルームサービスでということになり、部屋へ行ってから注文するようにヤレド氏から言われた。チェックインを終えたときカウンターのホテルの係員が会釈をした。エチオピアを旅したことのある友人から「おじぎする習慣があって、街では日本の演歌が流れているから何かとても親しみを感じる国」と聞いていたため、「ああ、これかぁ」と思った。明日朝早いということで、チェックイン後、部屋へ急いだ。別れ際にヤレド氏も御辞儀をしていた。その日は、さっさとシャワーを浴び、4時間ほどの睡眠のため床へ入った。

空港ターミナルで

 翌日、緊張感から何とか起床し、ルームサービスの朝食が届き、急いで掻き込み状態で食べる。卵を5つぐらい使っていると思われるオムレツとクロワッサン2つ、野菜ジュースと紅茶を注文していた。ロビーへ下りて行くとヤレド氏がおり、チェックアウト手続きをし、80個の板チョコを預かってもらい、空港へ向かった。外は夜明け前でまだ真っ暗であるのにランニングしている人を何人も見かけた。エチオピエアといえば、東京・ローマオリンピックと連続金メダリストのアベベ選手、アトランタオリンピックの金メダリスト、ロバ選手を初め世界のトップランナーを数多く輩出していることで有名だと言う話になった。ヤレド氏の話では、世界のトップランナーになることは、貧困から抜け出す手っ取り早い方法なので、皆、ああして頑張っているのだということである。日本びいきということもあってか、高橋尚子選手のオリンピック落選を非常に残念がっていた。前年、パリで開かれた世界陸上大会での日本のマラソンランナーの活躍をとても褒めてくれた。

 空港に着き、ラリベラでのガイドとなるエアルミス氏を紹介してくれた。エアルミス氏は28歳だが私よりも年上に見えた。昔、もう30年以上も前になるが、サントリーのコマーシャルに出演していたサミー・デービス・ジュニアに似ている。当時、ドリフタ―ズの加藤茶がよくマネをしており、それを思い出して笑ってしまった。

 国内線での移動ということで、出国手続き等は無く、荷物だけ預けて空港の中へ入っていく。空港の中はとても寒く、フリースを羽織っても手足が深々と冷えてくる。

 ターミナルから出口の木製の粗末な机の上で、再度手荷物検査をし、シャトルバスへ乗り込み腰を下ろしたところ、白い布を頭・体に巻きつけた伝統的な民族衣装を着た、老人が杖をついて乗り込んできた。すると、エアルミス氏はすっと立ち上がり、老人に席を譲ったのだ。その後、また別に老夫婦が乗り込んできたところ、別のエチオピア人の若者がすっと立ち上がり席を譲っていた。飛行機までのシャトルバスの異動時間はせいぜい長くても5分そこそこであるにも拘わらず、年寄りを尊敬し大事にするというエチオピア人に古き良き儒教文化圏である東アジアを見た気がした。

 約40分遅れてやっと飛行機が離陸し、経由地ゴンダールに着く。丁度、2号前のIDFの機関誌DiabetesVoiceで、ゴンダールの糖尿病事情が紹介されていたことを思い出し、エアルミス氏と話ていた。すると、降機しなくてよいはずなのに全員飛行機から降ろされ、空港のターミナルに向かう。機体にトラブルが発生したとのことで、修理時間中ターミナルで待たされた。約1時間程待たされた後、ようやくラリベラへ向けて出発した。

古都ラリベラ

 ラリベラという地名は、12世紀初頭に当地を治めたラリベラ王に因みつけられた。ラリベラ王は、非常に熱心なキリスト教信者で、当時、キリスト教徒が聖地としているエルサレムへの道がイスラム教徒に占拠され、安全が脅かされたことから、危険を冒してエルサレムまで行かなくても巡礼が果たせるように、この地に第二のエルサレムを建設しようとし、12の岩窟教会群が建設された。世界文化遺産にも登録され、これらの教会は現在でも、現役で宗教施設として機能している。トゥムカット祭(エチオピア版クリスマス)やイースターといった大きな祝祭日には、国内外から多くのキリスト教信者・観光客が集まる。この時期、宿泊施設が足りなくなるため、テントが立ち並ぶそうである。

 空港から出ると、まるで草の生えたグランドキャニオンとでも言うべき、雄大な景色が広がり、ラリベラの街へ向かう途中、伝統的な家屋が並ぶ集落、伝統的な手法で牛を使って畑を耕す人々が時折見られる。車を止め、写真を撮っていると、地元の少年が写真を撮ってくれと言いたげに近寄ってきた。一緒に写真を撮り、チップの代わりにバンコクの空港で韓国人の大学生の子から貰った飴を一つあげたところ、もう一つ欲しいと手を出してきた。以前、ペルーを旅行した時、観光客が与える菓子のために先住民の子供達の虫歯が増えていると言われたことがあり、ここでも心配になった。

 まるで、崖に張り付いているかのような状態の道を対向車も殆どないままにどんどん進んで行く。ガードレールも何も無い道であり、ドライバーの腕を信用するしかない。不思議なことに街が近づいてくるにつれて、舗装されていない道になってくる。頭から背中にかけて、一杯の薪を背負いながら徒歩で山道を登っていく人々の姿が目に付くようになり、ラリベラの街に着いた。

 道路は、ぬかるんで時折スリップする。道路に沿って人々が結構群がっているので、列に突っ込みはしないかと心配になる。

 人々の服装、建物の作り、そして自動車は走っておらず、タクシー乗り場の代わりにミュール(ロバ)乗り場がある。この後、エチオピア人・その他の外国人旅行者たちから、「ラリベラはどう?」と尋ねられ、「町全体が、まるで、生きてる博物館のよう(日本人に対しては“日光江戸村”のエチオピア版と答えている)」と幾度と無く答えるのだが、まさにタイムスリップしてしまったかのように中世、いやイエス・キリスト様が生きておられた当時から変わっていないのではないかと思わせる状態である。

 宿へ行く途中、民家により、エアルミス氏が傘を借りてくれた。傘は貴重品らしく、村で何本というレベルらしい。結構、強く雨が降っていても、地元の人が傘を使っているのは、見ることは無かった。

 昼ごろ予定より2時間ほど遅れてロハホテルに着く。街で一番の高級ホテルなのだが、断水・停電アリ、水道の水は茶色く濁り、お湯は朝6時から7時、18時から19時の1日3時間しか使えず、部屋の絨毯はビリビリに切れており、電話はロビーにたった一台という状態であった。それでも、ベッドメイキングはきちんとされており、掃除は行き届いていた。観光する教会は、午後2時まで昼休みで入れないとのことで、昼食を1時に取りそれから出かけることにし、昼食までの時間、早起きした寝不足を補うため、仮眠をとることにした。事前に青年海外協力隊OBであるN氏の伝で、エチオピアに派遣されていた隊員の方から、「エチオピアはマラリアよりもダニ・蚤の被害が多く、隊員も8割以上被害に遭っている」とのアドバイスがあったため、虫除けジェルを全身に塗り、荷物の外側にも虫除けスプレーを吹きつけ、ベッドに入った。

 昼食時間になり、ホテルの食堂で、魚フライ、パン、スープ、茹で野菜といった外国人用の食事を取る。エアルミス氏は、エチオピア人の主食であるインジェラ(テフと言う穀物を発酵させて作った蒸しパンのようなもの)を食べている。都内にあるエチオピア料理店で数回食べたことがあり、酸味の強い味が好きな私はエチオピアでは本場のインジェラを是非食べたいと思っていたため、エアルミス氏から試食させてもらった。やはり、美味しい。もしよければ、翌日の昼食は、伝統的なエチオピアスタイルのレストランで、インジェラを食べるかと訊かれ、もちろんイエスと答えた。

聖なる川・ヨルダン川

 腹ごしらえを終え、観光に出発する。まず、聖なる川・ヨルダン川へ案内された。今は、水が流れていないが、昔は、水をたたえており、人々の生活を支えていた聖なる川そのものであったという。非常に垂直的な崖を流れるような谷川、いや滝のような川であった状態が想像できる。川岸にはいくつか十字架の置かれた棺が置かれている。ず〜っと昔から置かれており、誰のモノかも分らないそうである。

 雨季であるため天気は非常に変わり易く、雨が降ると太陽光が遮られ、フリースを着ていても寒いくらいであるが、一時間も経たないうちに晴れ、太陽が顔を覗かせると半そでシャツ一枚で十分なほど暑い気候となる。一時間のうちに全季節が体験できてしまうのである。

 雨が降ると、深くえぐられた川床にちょろちょろと水が流れ出し、川という名の面目を保っているかのようである。

1000年近くも前にどうやって一枚岩をくり抜いて教会を?


セント・ゲオルグ教会前にて。一枚岩をくり抜いている。


一枚岩をくり抜いて作られた教会。


教会の入り口によっては、身をかがめなければ入れないほどの小ささ。


ラリベラ、セント・メアリー教会にて。


キリスト教会の司祭。


村の若者が集められ、キリスト教経典が口承伝承で教えられている。


故郷へ帰れることなく息を引き取った巡礼者も少なくなかったらしい。教会の岩壁にミイラ化した遺体が放置されている。


昔は、聖なる水として使われていた池だが、現在は草が生い茂っている。


中世、いやキリスト様が生きておられた時代にタイムスリップしてしまったかのような、“日光江戸村”さながらの“生きた博物館”。


天国への橋。この橋を無事に渡りきれば穢れの無き者として天国へ行けると信じられていた。もし、渡りきれず途中で落ちたものは、罪による天罰によるものとされ、そのまま地獄へ落ちたと看做された。
 雨に濡れながら、水溜りを避けるように歩き、救世主教会に着く。山の斜面の岩肌の一枚岩を掘り込んで作られたキリスト教会である。教会を入り口から、教会建物へ向かう道は、溝のようになっており雨水が小川のように流れて、苔も生えており非常に滑り易い。私があまりに慣れた足取りでスタスタと進んでいくのを見て、エアルミス氏が驚いていた。子供の頃、家の周りは林・また住宅造成地に囲まれ、粘土質の水が湧き出しているようなところで遊んでいたため、体が覚えているのかもしれない。

 教会へ入るには、靴を脱がなければならない。床は埃だらけで内部に引かれている絨毯はダニだらけとガイドブックに書かれていたため、あらかじめ処分するつもりであった古い靴下を用意していた。教会内部は薄暗く、欧米の教会のようなステンドグラスや壁画もない。壁には幾種類かの十字架型の窓があり、祭壇横にはエチオピアスタイルのイコンが数枚置かれ、古アムハラ語で書かれた聖書が譜面台のような台の上に置かれている。エチオピアの教会では、賛美歌というよりも、むしろ仏教のお経に近い響きのチャントが太鼓のリズムに乗って歌われる。

 司祭のいる奥の部屋の前まで案内され、カーテンが敷かれた部屋から、伝統的な衣装に身を包んだ司祭が出てきて、ラリベラ王から与えられたというその教会のシンボルである十字架を片手に祭壇の前に立つ。教会ごとに十字架の形が異なっており、その形が意味することをエアルミス氏が説明してくれた。そして、熱心なキリスト教徒である氏は、最後に十字架に接吻をする。

 教会内には、部屋がいくつかあり、非常に急な階段をそれこそ梯子を登るように登りながら上階へと上がっていく。全く光が届かず、真っ暗で、私が海外旅行のときには、いつも持参するペン型ライトが非常に役立つ。部屋といっても非常に狭く、身動きが取れない状態で、岩の壁に掘ってあるため、非常に冷たく、気をつけないと足が悴み自由が利かず怪我をしそうである。この教会の大きさそのものだけではなく、天井の高さといい、部屋をどのようにして、また十字架形の窓まで、一体、硬い一枚岩をどのように掘って作ったのか・・・・・。驚きと感動で一杯であった。素人の私の力ではとても文章では表わせない。また遺跡としてではなく、1000年近くも、当時と同じ状態で、現役の教会として使われ続けているという何とも不思議な雰囲気・・・・。欧米人が今なお昔と変わらないスタイルで運営されている日本の神社仏閣を見る時、同じような感覚を味わうのであろうか?

 このほかにもいくつか同じような一枚岩を掘り込んで作られた教会を訪れた。 救世主教会と異なるのは、結構、司祭以外の人々が住み着いており、通路や小部屋にボロボロの寝台や衣服が雑然と置かれていたり、掘り下げられた壁が塀のようになっており、そこに穴が彫られ薪や干草、衣服や食料が入れられている。中には、巡礼者の遺体まで置かれ、ミイラ化・白骨化した状態になっていた。

 床に干草がひかれている教会もあり、干草の積まれた馬小屋で生まれたイエス・キリスト様の誕生シーンが描かれた絵を良く見かけるが、その情景が浮かんでくるようであった。

 屋外には、水たたえた聖なる池があるのだが、どの教会のものも水草で緑色になっており、今は聖なる水として使われてはいないようだ。乾燥地帯で生まれたこともあるのであろう、キリスト教信者となる最初の儀式を洗礼という形で行うことからも伺えるように、キリスト教信者にとって聖なる水というのは、特別な意味を持つらしい。

崖の中腹の洞穴を利用した教会

 翌日、ラリベラの中心地から少し離れたところにある、崖の中腹にある洞穴を利用し、壁をレンガで作った教会にも行った。集落の脇を通る泥と家畜の糞でぬかるんだ道に沿って教会入り口を目指して進んでいく。道を歩いていると村の共同水汲み場と住まいを大きな土器を背負った女性が往復している。家族の人数やその日によっても異なるが、大体1日平均5往復はするそうである。水道が普及している現在の日本では味わうことのできない苦労であろう。しかし、共同水汲み場の蛇口を捻りながら昔の日本でいう井戸端会議も楽しそうであった。

 水汲みの女性だけではなく、目の見えない人、足を引きずっている人など体に障害のある人や皮膚病を患っている人、大きな瘤(もしかしたら腫瘍かもしれない)を見せてくる人、身寄りの無いお年寄りなど多くの人が巡礼と称して教会の周りに集まり、住み着いている。他の参拝者の喜捨の恩恵に頼って生き延びているようである。チップ欲しさに一緒に写真を撮ってくれと近寄ってくる者もいれば、自分の持つ障害を指差しながら生い立ちを語りお情けを頂戴しようとするものいる。それでも、他の国で経験したようなしつこさというものは全くない。

 この地区では、トラコーマで失明してしまう人が少なくないらしい。

 入場券売り場とでも言うべきなのだろうか。道の途中で、老人が立っており、入場料を徴収している。カーボン式のノートに何かしら書こうとしているのだが、書くものがないということで、「ちゃんと返すから大丈夫」だと言って私のボールペンを使って書いた。あげてしまっても良かったのだが、私も一本しか持ち合わせておらず、ガイドのエアルミス氏でさえもペンは所有しておらず、現地調達もできそうにない状態だったためあげられなかった。他国で経験したように観光客にたかる習慣を作ってしまうのも、あまり好ましくないと思うことから、不便さを我慢してもらうことにした。エージェントの人々だけではなく観光客と接する機会が多く物質文明の汚染を受け易い立場にある人々でさえも、観光客にたかろうとはせず、ひたすら良いサービスを心がけて頑張っている印象を受けた。やはり、例え経済的には豊かといえなくてもエチオピア人は道徳心の高い、誇り高い人たちという印象をうけた。

 まるで崖を下るようにして、岩場とでも言うべき階段を降り、教会の建物へ向かう。ドアが開けられ中へ入ると、洞窟の“屋根”から滴り落ちてくる水を床の上で石で作った入れ物で受け止め聖なる水として、室内にある泉の状態にしてある。別の部屋にはイコンや古アムハラ語で書かれた聖書と言った他の教会にあるものが揃い、床には干草がしかれ、部屋から部屋へ向かう通路には、司祭・教会関係者の家財道具が乱雑に置かれている。

 他の教会と同じように祭壇前で司祭が十字架を見せてくれた。

 司祭が私の上着の胸ポケットに入っている、スキー用の大きなサングラスを興味深げにず〜っと、じ〜っと見つめている。エアルミス氏の通訳では、表面が鏡のように反射し、姿が映って見えるため興味を示しているそうだ。今は司祭といえば、世俗から離れたところで聖書ばかり読んでいるようなイメージがあるが、古来、医学・建築といった科学の分野にのみならず、絵画・音楽・文学など幅広い文化の担い手であったことを考えると、好奇心が旺盛というのは、頷ける。

ラリベラの村で


市場の香辛料売り。


テフ(白色)
エチオピアでしか収穫できない穀物の一種。主食であるインジェラの原料となる(赤色と白色があり、赤色の方が栄養価は高いものの味が良いとのことで白色の方が人気がある)。


テフ(赤色)。



水汲みは女性の仕事。



村の子供。


ラリベラの農民の家。


村の一般家庭の厨房。


村の子供達。


村の共同水汲み場。
 ラリベラの中心地へ戻り、地元の人々の生活を見てみたいと思い、村の中を見せてもらうことにした。泥と家畜の糞でぬかるんだ道を歩きながら、集落の中を進んでいく。教会での会合があったらしく、白い布を身に纏った人たちが沢山道を歩いている。伝統的な家屋が立ち並び、野外の台所で原始的な道具を使って炊事をしている人、糸を紡いでいる人、機織している人、座って談笑している人と様々な人々がおり、子供達は元気に遊びまわっている。一つの大きなビーチパラソルのような傘の下に十代と思しき少年達が集まり、チャントを口承で練習している。

 教会の前でも将来司祭を目指すと言う子供達が口承によってチャントを練習している姿を良く見かけた。分厚い聖書を暗証できるとは、その記憶力に驚くばかりである。最近の日本でも脳の活性化に良いとして、音読ブームであるが、昔の日本人は、色々な漢文を含め古典文学を諳んじることが学問の基本とされており、古事記・日本書紀も口承伝承がもとになっていることを考えると、創造性を阻害するとして非難の的となっている棒暗記も創造性の基礎となるものとして見直さなければならないのかもしれない。

 家の中の中も見せてもらったが、真っ暗で埃だらけの状態で、家財道具は殆ど無い。ボロボロで汚い寝台、炉がある。パプア・ニューギニア、タンザニアで現地の人の家の中を見せてもらったときも似たような状態だったため、人間とは古来、このような生活をしていたのだろうと思った。日本でも、それほど時代を遡らなくても、田舎育ちのウチの親世代・祖父母世代にとっては懐かしい情景と映るのかもしれない。

 村を通り過ぎ市場へ向かう。あちこちに商品を運ぶため、また商品として売られているミュール(ロバ)が繋がれている。ミュールも高価で贅沢品であり、殆どの人たちは、自ら商品を背負って、何キロも離れた自宅から歩いて市場まで来る。

 売られている商品は、殆どが食料品で、テフ(エチオピアでしか栽培できず、主食であるインジェラの原料)・小麦・コーンスターチ(何と米国から輸入されている)といった穀類、トマト・たまねぎ・さつまいも・ピーマンといった野菜類、香辛料、肉と各“売り場”が分かれている。皆、地面の上に敷かれたござの上に並べられている。

 別のセクションでは、衣類(といっても殆どは布のまま)が売られており、何件に一軒かの割合で店頭にある、古い、本当にオンボロ足踏みミシンを踏んでいる人々がいる。蛇の目・JUKIといった日本のメーカーが多い。

 ホンの数件ながら、昔の日本にもあった“よろずや”を思い起こさせるような商店もあり、きちんと包装された食料品、飲み物、菓子類、洗剤、電球、サッカーボール、ポリ容器、サンダルと本当にありとあらゆるものが売られている。

©2004 森田繰織
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