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混沌と生きるエネルギーに満ち溢れる国 バングラデシュ 1

2003年06月
バングラデシュ
面積 14万4,000km2 人口 約1億3,000万人
1. 母なるガンジス川の河口、“ベンガル人の国”へ

 1995年12月から翌年1月の正月休みを利用して、バングラデシュを訪れた。たまたま、青年海外協力隊で同国に赴任していた経験のある友人N氏と知り合う機会を得ることができ、当時のテニス仲間4人と彼にエスコートしてもらうかたちで実現した。

 バングラデシュという国名は、「バングラ=ベンガル人の、デシュ=国」という意味だそうだ。多くの日本人がもつイメージは、洪水、貧困に悩む国であろう。私も実際に同国を訪れるまでは、「世界最貧国の国で貧困にあえぐ可哀想な人達」というイメージしかもっていなかった。

 最近、茨城県の東部の神栖町で、旧日本軍が廃棄した砒素によって井戸水が汚染されていることがわかり、問題になった。日本では、人為的に砒素によって汚染された井戸水が問題になっているが、ガンジス川の河口に位置するバングラデシュは、天然の砒素により井戸水が汚染され深刻な問題を引き起こしている。

 バングラデシュでは、雨季にはサイクロンによって、毎年のように洪水が引き起こされ、国土の3分の2が水没してしまう。洪水に悩まされながら、生活に必要な安全な水に困っているという何とも皮肉な状態にある。

 幸い、日本の正月休みの時期は、バングラデシュでは乾季にあたり、一番過ごしやすい時期で洪水の心配もないとのことであった。

2. 同じアジアなのに道のりは遠し

 同国へ行く前は、インスリン注射をしながら、「世界最貧の食べるものすらロクにない、衛生状態の悪い国」へ行く不安は大きく、また母も非常に心配していた。実際、同国に関するガイドブックは本屋で探しても皆無で、ようやく紀伊国屋書店の洋書コーナーで英語版のもの一冊が手に入るだけであった。英語版では日本人向けの情報ではないため、ビザの有無など国によって異なる情報を確認しなければならない必要があった。現在であれば、外務省や JICA のホームページでその手の情報は簡単に入手できる。したがって、ビザや医療事情、衛生状態についてはN氏の情報を頼るしかなかった。

 主治医も最初は「インド(多くの日本人はバングラデシュはインドの延長と考えている)のような衛生状態が悪く、日本人はみな下痢と発熱に悩まされる国はダメ」だと言っていたのだが、好奇心のほうが命よりも勝っていた当時の私は「滞在経験のある友人の話では、いざというときは、大使館の医務官を頼れますし、協力隊の後輩で医療スタッフとして派遣されている人もいるから大丈夫といってくれてます。たった4日間の滞在ですし、それに何かあったら、バンコクまで戻れます」と説得し、「糖尿病の証明書」を書いてもらうことができた。

 とりあえず、いつもながら下痢、風邪薬、抗生物質を処方してもらい、前回南アフリカを旅したときに処方してもらったマラリアの薬(ファンシダール、もちろん自費。後で現地に滞在する協力隊員に聞いたのだが、近年、同国ではマラリアよりデング熱の方が流行しているということであった)を冷蔵庫から引っ張り出し、抗生剤入り目薬と傷薬を買い込んだ。

 インスリンについては、当時使っていたノボレットR2本とN1本を首から下げるパスポート入れに、そして機内持ち込みサイズのスーツケースにも同量、すぐに使うお金などの財布の入ったショルダーバッグにも同量、足巻き式の貴重品入れにもノボレットR1本、腰巻式の貴重品入れには昔使っていた1cc の使い捨て注射器3本とペンフィルRのカートリッジ2本と同じくNのカートリッジ1本を入れた。

 各貴重品入れにはお金も同居しており、衛生上の懸念はあったが、とりあえずは針が直接触れているわけではないし、あくまで“緊急用”ということで納得した。現地についてからも、盗難や凍結の懸念があるため、冷蔵庫では保存しなかった。

 バングラデシュへ日本人が入国する場合、ビザが必要で、その点を旅行エージェントにも確認し代行申請をしてもらうこととした。ビザの申請用紙を見て驚いたのは、観光ビザでありながら、非常に細かなことまで記入しなければならないことであった。女性の場合は、父親の名前、既婚者なら夫の名前(これもイスラム圏であるからなのか)まで記入しなければならず、それまでこんなに複雑な申請書は見たことはなかった。

 無事にビザは下りたものの年末年始の込み合う時期で、航空券がなかなか手に入る状態ではなかった。当時、成田からダッカ(バングラデシュの首都)までの直行便は毎週火曜日のみビーマン(ベンガル語で飛行機の意味)バングラデシュ航空のみで、日程的に無理なため、タイ航空を利用しバンコク経由で行くことになっていたのだが、成田からバンコクまでの便になかなかキャンセルが出ず、出発の2日前になってようやく航空券が手に入った。

3. たっぷりの異国情緒にカルチャーショック

 バンコクで一泊し、ダッカへ向かう。ダッカ空港といえば、かれこれ25年くらい前だったか、日本赤軍のダッカ事件がテレビニュースで放映され、「滑走路の周りに草が生い茂る田舎の空港」と子供心に記憶が残っていた。実際、着いてみると当時と変わらず滑走路の周りは草が生い茂り、所々水溜りもあり、人々がその水溜りで水浴びし、輪になって談笑している。「ここが、一国の首都の国際空港か」と疑いたくなる光景であった。

 ベニヤ板を張り合わせたような粗末なカウンターで入国手続きをした。手続きのとき、係官が私の職業をしつこく何回も聞き返した。N氏いわく、「日本人女性はバングラデシュ人男性にとって憧れだから、話をしたがってる」ということである。


ダッカ空港周辺のバイクタクシー
 空港の周りには、想像に違わず、多くの物乞いや客待ちをするバイクタクシー、タクシー、物売りなどでごった返している。

 まるで“野良牛”のように道路を歩いていたり、道の真ん中で寝そべって昼寝をしている牛たち。長い竹の建築資材を積んでいる大八車がなかなかカーブを曲がりきれずに立ち往生している状態があちこちで見受けられ、渋滞の原因となっている。その渋滞で止まっている車やバイクタクシーの乗客に向かって、不自由な手を見せつける物乞いさんたちがたくさんいる。現地滞在の日本人スタッフたちから「彼らのほとんどは、同情を引いて、“稼ぎを良くするために”生まれて間もなく親に腕を切り取られている」と言う話を聞いて、大変ショックを受けた。

 通りを歩いていると、5〜6歳の男の子が「マネー、マネー」と言って、纏わりついてくる。可哀想だと思うのだが、ここでお金をあげてしまうと、人々が集まってきてしまい収拾がつかなくなるとのアドバイスから、振り払って無視して歩き続けていると、街のあちこちに立っているライフル銃を持った警官か軍人(N氏もどちらかわからないとのこと)の一人が、突然その男の子供を銃で殴りつけ、怒鳴りつけた。その男の子は、音をたてて地面に背中から落ちた。何もこんな小さな子供にそこまでしなくてもと思ったのだが、こんな厳しい中を生き抜く子供の生命力に逆に敬意を表したい気持ちになった。


ダッカの街道
 N氏がタクシーと交渉し、協力隊員の住む街中へと出発した。路上は、同じ車線に自動車、大八車、バイクタクシー、輪タク、牛、人で溢れており、事故が起きないものが不思議なくらいである。信号はなく、また交通ルールというものがないに等しいため我々が乗っているタクシーの側面めがけて次から次へとバイクタクシーが突っ込んでくる。その都度、追突されるのではと生きた心地がしなかった。また、通りの本来なら歩道であるべきところに筵で囲っただけの住居も数多く存在している。英語で Chaios(ケイオス・混沌)とはまさにこのことを表現するためにある言葉なのかと思った。しかしながら、その中は、生きるためのエネルギーが満ち溢れている。


ゲストハウスの入口で
 協力隊の人の案内で、高級住宅街にある外国人用と思われるゲストハウスへ到着した。我々5人は、3部屋に分かれて宿泊することとなった。想像していたよりもキレイな部屋であったが、バスルームのガラスは割れており、また排水溝を伝って蚊が入ってくる状態であったため、日本から持参した蚊取り線香を2本炊く。バイクタクシーの排ガスと蚊取り線香の煙のために喉をやられてしまい、声がガラガラとなってしまった。水は、歯磨きするときでさえも必ずミネラルウォーター、それも栓のしっかりしているものを選ぶようにとN氏のアドバイスを受け、それに従った。

 ゲストハウスの食事は、パン・スクランブルエッグ・ソーセージ・茹野菜などといった西洋風であった。出先で外食するときは、地元の人が食べるベンガルカレーを食した。出される量はものすごく、それもご飯が多いのとカレーは油分が多いのであまり糖尿病患者向けとは思われない。この国では、ひとりで食事をすることが一般的ではないため、「一人前」という感覚がないらしい。しかしながら、カレーにはたくさんのスパイスや野菜が煮込まれており、“薬膳料理”の働きがあるらしく、地元の人達が決して良くない衛生状態の中で暑さに負けず生きていける要因となっているときいた。量を調節しながら食べれば、糖尿病患者であっても楽しめることは楽しめる。

4. ダッカで迎えたカウントダウン


動物園の入口で
 翌日、バイクタクシーで、動物園に行った。バイクタクシーが交差点で停止したりするとすかさず物売りの子供が乗り込んできたり、物乞いさんが手を差し出してくる。動物園の入り口に半身不随思われる10歳ぐらいの少年が友人のひとりの足に抱きつくように纏わりつき、物乞いをする。この国では、いまだポリオが多いらしい。

 とくに珍しい動物がいるわけではないが、地元の人達にとっては、外国人、特に欧米人よりも珍しい東アジア人の方が珍しいらしく、我々のあとにはいつのまにか50人をこえるギャラリーがいた。

 動物園のお手洗いに入ったところ、想像を絶する汚さであった。ドアを開けるとものすごい数の蚊の大群が舞い上がり、何とか追い払ってドアを閉めると中が真っ暗で何も見えなくなってしまった。仕方がないので、他に人がいないこともあって、ドアを少し開けたまま用を足した。この国では、路上に人の汚物が普通にあり、また実際に用を足している姿もよく見かける。一般家庭のトイレ事情は不明だが、この経験から想像すると、そうした事情も理解できるものがある。

 その夜、大使館員のお宅へ行き、大晦日ということもあり、現地にいる日本人達のカウントダウンパーティーに混ぜてもらった。そこで、現地にいる人達から、この国の色々な事情を聞いた。この国では、人件費が安い(労働者の平均日当が約40円)ため、建設現場では機械化が進まないこと。給料は出さなくても食事付の住み込みで働く場を提供するだけで、感謝されること。雨季のバングラデシュは、非常に高温多湿で、脳ミソにもカビが生えそうなほどであること。などなど日本では考えられない話を数多く聞いた。

 また、医療事情については、使い捨てのはずの注射器が何度も使いまわされ、針の先が丸くなってしまっている状態になっても使われるため、エイズをはじめ感染症の懸念があること。貧しい人のための無料の病院はあるもの、そこへ行くためのバス代が払えずに手当てを受けることができない人が多数いることなど。私にとっては非常にショッキングな話もあった。

 パーティーを終え、ゲストハウスへ戻る途中、道路は新年祝賀気分で浮かれまくっている男性達で溢れかえっていた。1台の乗用車に10人ぐらいでトランクの中まで乗り込み、窓から大きく身を乗り出し「ハッピーニューイヤー」と叫んでいる。まるで、日本の暴走族のようである。道を歩いていても、見知らぬ男性達が次々「ハッピーニューイヤー」と声をかけてくる。路上のあちこちで用を足している人も少なくなく、気をつけないとぶつかってしまう。イスラム圏ということで、アルコールは禁止されているはずなのだが、大の大人がよくあそこまで素面で騒げるものだと感心してしまった。
©2003 森田繰織
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