私の糖尿病50年-糖尿病医療の歩み

58.学会賞

1. リネゴ社長に研究奨励賞を要望
 1960年頃、わが国でインスリンを発売している会社は、デンマークのノボ社よりインスリン製剤を輸入していた小玉KKであった。1980年代になるとデンマークのインスリン製造会社ノルディスク社が日本ノルディスクKKを設立した。

 1986年の初夏だったように思い出すが、社長のクヌード・E・リネゴ氏が仙台にみえられ大学病院を訪れ、夕方は評定河原球場を見下す春風亭で会食した。デンマークのオルフスの大学を訪れたり、またコペンハーゲンの研究室などを3度訪れたことなどで話が弾んだ。当時、筆者は若い研究者に研究奨励賞があればよいと考えていたので、そのことを話したら良い返事を得た。

 その後、正式の書類が学会事務局に届いた(図1)。これが日本糖尿病学会賞のハーゲドン賞となっている。リリー社からも同様の申し出があった。実際に募集してみたら定年間近の応募が多いということになり、リリー社のは若手ということになった。

図1 リネゴ社長の学会賞了承の手紙

図2 ハーゲドン賞のメダル


 ではハーゲドンはどんな人だったのか。デッカート著『ハーゲドン情熱の生涯 理想のインスリンを求めて』(時空出版、2007年)を参考に以下のようにまとめてみた。
2. デンマークのインスリン製造
 インスリンの抽出に成功したのはBantingとBestで1922年より臨床に用いられた。その精製はCollipの協力によるものであった。ではハーゲドンがインスリン製造に関与するようになったはどのような経緯からだろうか。

 Hargedon Hans C.は航海士の第2子として1888年3月6日出生、乳幼児期は船内で暮らすことが多かった。船がノルウェーを北上し、ノール岬を東に白海に入り、アルハンゲリスクに停泊した。1人の船長が「坊やはどこの土地の子かい」と聞くと、ハンスは「僕は土地の子じゃないよ、海の子だよ」と答えた。船長は感心してハンスを高々と持ちあげた。

 妹も生まれハンスが学齢期になると家で暮らしたが、父は家で暮らすことは少なかった。ギムナジウムから医学部に入り1912年に卒業し1913年にヘニアン病院(36床)で実地を学び、1915年にBrande村に開業した。

 その村にマリア・スタヴンストルップが歯科を開業、ハンスとマリアは結婚し開業を続けた。ハンスは父と弟が糖尿病になったこともあって糖尿病に興味をもっていた。そのブランデ村に化学に詳しいNorman Jensenが薬局を開業した。

 北欧ではルンド大学生化学のBang教授がすでに血糖の微量定量法を考案していたが、ハーゲドンはJensenとともにフェリシアニド法による微量血糖測定法を考案した。これがHargedon-Jensen法として1960年頃までわが国でも広く用いられていたものである。

 ハーゲドンは呼吸商について研究し、ノーベル賞生理学者のAugust Krogh教授の指導を受けていた。クロー教授の妻も糖尿病になりハーゲドンに相談するようになった。

 クローは1923年米国に講演に招かれ、そこでインスリンのこと、またその効果を知り、すぐにハーゲドンに報せた。クロー教授の帰国を待ってハーゲドンは自宅でインスリンの製造を開始した。1週間後には血糖降下の実験成績が得られた。レオ製薬会社の協力も得て、抽出した製剤で1923年3月には市立病院で最初の治療が行われた。

 最初の患者は重症で血糖は降下したが翌日死亡。続いて7名の患者に注射し有効性が確かめられた。この成功の噂は野火のように拡がった。

 そして5月にはレオ社の生産部門としてノルディスクインスリン研究所(NIL)が設立された。ハーゲドンの自宅研究室で製造されたインスリンをノボ社に販売する話ももちあがったが、クローとハーゲドンはこれを拒否したので生産を行っていたベダーセン兄弟は自分たちでノボテラピューテック研究所を設立し別個にインスリンを製造することになった。ハーゲドンらも3棟からなるNIL(ノルディスクケントフテ)を設立した。

3. ステノ記念病院
 ハーゲドンは自分たちの病院をもつ必要性を感じていたが1929年に理事会でその提案が採択され、1931年に着工し32年に20床の病院が開院された。これがSteno Memorial Hospitalである。

 Nicolaus Steno(1638-1686)はコペンハーゲン生れ、解剖学では耳下腺のductus stenonius、canales nasopalatini stenonianiなどに名が残り、数学、古生物学、地質学そして神学など多分野にわたって研究した万能学者でデンマークの学徒に崇められている人である。そこでハーゲドンもその名をとってステノ記念病院としたものと思われる。

4. プロタミンインスリン
 ハーゲドンらのインスリンは純度が高くなるにつれて血糖降下作用は強くなったが、作用時間は短くなった。医師も患者も作用時間の長いものを求めていた。

 ハーゲドンらはインスリンを溶解しにくい塩の形で投与すれば作用時間が延長するのではないかと考えた。エンセンはプロタミンを研究していたが、酸性のインスリンとアルカリ性のプロタミンを結合させることを考えた。このようにしてNILにはプロタミン工場が設けられC. H. Krayenbuhlらが研究にも参加し、プロタミンとしてはニジマスの精子より抽出したものがもっと良いことなどを見出した。

 またインスリンプロタミン飽和化合物(溶液には遊離したインスリンやプロタミンが存在しない状態)のisophane pointでのインスリン、プロタミンの量的関係は、プロタミン1分子につき約6分子のインスリンがカルボキシル基で結合していることなどのこともあきらかになった。イソフェンインスリンの名もこれから出たものである。

 1933年にこのプロタミンインスリンはステノ病院でN. B. Krarupにより41人に臨床応用され、またハーゲドンも独自に44名に治験を行い成績は1935年に発表された。ハーゲドンはこの製剤をneutral protamine crystal、NPCと呼んだが、米国のFADはこれにハーゲドンの名を入れてNPHと名づけその栄誉を称えた。NPHの結晶も得られた。

 同じ頃カナダではScottとFisherがプロタミン亜鉛インスリンを開発し特許出願していた。一方、ハーゲドンらは1940年にはプロタミンインスリンの結晶化に成功し、速効型との混合も可能になった。

5. ハーゲドンの晩年
 ハーゲドンは気難しく、ときには激昂する性格であった。そしてプロタミンインスリンをめぐって協同研究者のJensenと仲違いし「完成するかしないかのうちに金銭的報酬、科学的功績の配分について同意に至らず、我々は反目のうちに別れた」と記録にとどめている。

 ハーゲドンは60歳頃よりパーキンソン病になった。最後の旅はドイツの北にある大学町、膵摘糖尿病を発見したミンコウスキーが内科教授として膵より有効物質の抽出をしていたGreifswaldであった。1971年10月6日死亡、83歳、死因は心筋梗塞と両側肺炎。

6. 日本でのデンマークインスリン
図3 ノボ社のロゴマーク
 ハーゲドンらから共同製造を拒否されて別個にノボテラピューテック研究所でインスリンを製造したベターセン兄弟らの事業も発展し、ライデンで開発を進めレンテ、セミレンテ、ウルトラレンテなどを開発し1951年に特許出願した。当時のデンマークのインスリン製造のトップはノボ社であった。

 わが国では糖尿病が徐々に増加し、戦時中入手に苦労したインスリンも1950年代後半から普通のルートで得られるようになった。ノボ社のインスリンを扱ったのは小玉KK(1955-89年)。図3は小玉の冊子(1970年)にあるノボ社のロゴマークであり、現在のノボ ノルディスク ファーマのものとは異なることがわかる。

 その後1989年-1990年末まではノボ社のインスリンは小玉と住友製薬との併売となり、1991年より日本ノルディスクKKとなり山之内製薬併売となり、1986年4月にはノルディスクNPH50年記念講演会が東京、仙台、名古屋、大阪、福岡で開かれた。1998年よりノボ ノルディスク ファーマKKがインスリン製剤の自販を開始した。

(2007年10月16日更新)

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