DMオピニオン

インスリンとの歩き方
著/遠藤 伸司

2015年11月02日

第3回 就活と見えざる何か

第3回 就活と見えざる何か

 三島由紀夫の言葉を借りれば、僕の母校は「見せかけの形式主義が伝統的に巧みな校風」だったように思う。一貫校ということもあり、大学は入試もせずにそのまま入学した。カタツムリの殻もいよいよ厚くなって、ドクターとの診察ももはや形式的な儀式のようになっていた。発症後、約10年が経過していた。月一回の診察は、必要最低限のやりとりで済ませた。HbA1cの結果と合併症の有無を聞くぐらいだった。血糖の結果を記載した血糖自己管理ノートはほとんど持参しなかった。

 「血糖測定ノートはどうされましたか?」とドクターに問われれば、
 「あっ、すいません。忘れてしまいました……」と、脂汗を拭くふりをしながら神妙に答えた。ホンネでは、「血糖値なんて、感覚でわかるから、測らなくても大丈夫なんだ」と思っていたが、そんなことは覚られないよう振る舞った。

 月一の診察をそんなふうにやり過ごしながら、大学生活は終盤にさしかかっていた。いよいよ就職活動の時期が始まろうとしていた。《1型糖尿病患者でも就業に問題はありません》、そんな証明書のようなものをドクターに書いてもらい、僕の就活は始まった。

厳しいノルマを経験したい

「仕事に貴賎はない」

当時、父は就職に関して繰り返し言っていた。元々は石田梅岩の言葉だったが、僕はこの言葉に、少なからず感化された。

「仕事があるなら何でもいいや」

 希望する職業と、より大きな企業への渇望でざわめく友人をよそに、僕は欲を持たずに就活を始めた。

 青葉が茂り始めたころ、カッコよく着こなしているとは、お世辞にも言えない違和感のあるスーツ姿で、しばしば会社説明会に出かけた。低血糖からの汗なのか、緊張からの汗なのか、正体の見えない汗を拭いながら、とにかく歩いた。そして幾多の会社説明会を経て、胸のうちに2つの条件みたいなものが固まっていくのを感じた。

 1つは1型糖尿病を面接でキッチリ伝え、それを受け入れてくれる会社であることだった。隠してビクビクしながら仕事をするのは嫌だったからだ。だから、すべての履歴書には1型糖尿病と書いて提出した。効果のほどは不明だったが「働くのに支障はない」という医師の証明書も添えて出した。

 面談したリクルーターには、最初に1型糖尿病を伝えた。中には「健康かどうかはあまり気にしないでいいです」と、堂々と発言してくれるリクルーターもいた。社会から受容されたようで嬉しい反面、自分の能力が問われているのだと、身の引き締まる思いがした。

 自分の中のもう1つの条件は、業種は何でも良いが、職種には拘りたいということだった。ノルマの厳しい営業職を体が欲していた。あまりに充実感のない大学生活に飽き足らなかったので、社会に出る機会に、自分を鍛え直してみたかったからだ。

 この二つの「条件」を自分で決めてからは、前進しトライするのみだった。面倒な就活ではあったけど、それほど苦にはならなかった。業種は絞らず、とにかくたくさんの会社を受けた。小さな会社、有名な企業や外資系企業、さらに国の外郭団体まで……。

初めての内定。しかし……

 3ヶ月くらい就職活動を続けた後、遂に最初の内定がでた。

 商品先物の小さい会社だった。営業もかなり厳しそうだし、シビアな業種だし、その点では自分に課した条件には合っていた。就活が面倒になってきたところだったし、「まっ、ここでいっか」という気になっていた。ところが、内定を承諾する電話をかけようと思ったまさにその瞬間、自宅の電話のベルが鳴る。それは最大手の通信会社から最終ひとつ前の面接への呼び出し電話だった。僕の心は動揺した。おまけに欲も出てきた。気合いを入れるように慣れぬネクタイを締め直し、勇んで出かけた。

 しかし……しかし無念の不合格だった。
 1型糖尿病のせいで受からなかった。

 そう、自分を暗示にかけて慰めようとしていた。親や就活を終えた友人には不合格の理由を病気の責任にした。しかし、本当のところは面接で極度にあがってしまい、受け答えも呂律が回らなかった。面接後は発表まで僅かな可能性に賭けて待ったが、やっぱりノックアウトだった。

 逃した魚は大きかった。けれど、最終のひとつ前まで来られたということが、励みにもなった。もう少し就活を頑張ってみよう、きっと次はうまくやれるという気持ちも生まれた。 「さて次行こう。」もう一度、リクルートスーツに腕を通した。

 2社目に内定が出たのは、外車の輸入販売の会社だった。職種は自動車の販売営業だった。面接では「1型です、1型です」と大きな声で連呼したが、トントン拍子に面接は進み内定をもらった。僕が車好きだったこともはずみとなって、この会社への入社を決めた。

見えざる何か

 無事に就活も終わりを告げて、解放感と安堵感に包まれた。残る大学生活は単位取得のためだけに必要最低限の授業しか受けず、バイトと読書にあけくれていた。傍から見れば、幸せそうなのんびりとした様子に見えたかもしれない。しかし、僕の頭の中では、未知なる外車販売の世界のことが、ぐるぐる廻っていた。

 「営業やるなら頂上までいってみたい」

 漠然とした野心が大きく羽を拡げる。
 かと思うと、悪い妄想も突然、襲ってくる。合併症といういつ爆発するかわからない爆弾を抱えている僕に、いきなりカウンターパンチのような言葉が浴びせられる。

 「健康な人より、あなたの人生の残り時間はきっと少ない」
 シリアスな言葉だった。

予期せぬ状況からいきなり1型糖尿病を宣告されて10年、合併症という恐怖には常に悩まされてきた。だから、おざなりだったけどインスリンは打っていた。眼底検査や血液検査も定期的に受けていた。幸い、それまでの10年は合併症も発症せず、人知れぬ苦労はあっても、外から見れば、なんとか普通には暮らしてこられた。しかし、「残りの時間」という、どうにも測定できない未来の最終駅が、突然、脳裏に浮かんだ。忽然と姿を現したのだ。いや、以前から気づいていたのに、無意識に、どこかへ押しやっていただけかもしれない。 焦燥感が霧のように僕を取り巻いていった……次回へ続く。

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