DMオピニオン
facebook
メールマガジン
糖尿病3分間ラーニング
インスリンとの歩き方
遠藤 伸司

第9回 1型糖尿病(23歳、男)の性

2016年04月

1型糖尿病(23歳、男)の性

 その日、糖尿病の診察のために会社は休みだった。

 実家暮らしの僕の四畳半の部屋には、カーテンがなかったので陽の光は、すでに床の赤いカーペットまで届いていた。大量の眩い光のおかげで、僕は部屋にある全ての物を認識することができたが、ベッドに寝ている僕のプライバシーは磨りガラスによって守られていた。まだ仰向けに横たわったままで、僕は天井のしみを見ていた。頭は空っぽで、まるで真空パックに入れられたみたいだった。何も生み出すことはなかった。ただ、今日は会社がないという解放感だけは認識できる。さて。僕はおもむろに、ベッドの下に隠し置いてあった少々過激な雑誌を手に取る……。

いつもの診察

 病院に行くことが急に面倒くさくなった。母親に頼んで薬だけもらってきて貰う案が浮かんだが、気怠くなった重い体に鞭を打ってベッドを這い出た。

 「遠藤さ〜ん、どうぞ〜」

 いつも混んでいる白い巨塔の待合所で名前が呼ばれた。今日のドクターの声は明るいトーンだった。僕は薄いピンクのカーテンを開けて診察室に入り椅子に腰をかけた。

 「遠藤さん、どうですか。調子は」

 仕事で初めて1台の車を売って、それ以降も毎日飛び込み訪問の連続で、感情を失くしてマシンのようにノルマの軒数をこなし、帰宅は遅いときには深夜の2時くらいで、朝は8時に出社しています。食事のほとんどが外食で、運動は会社の車を洗車するくらいのものです、と僕は答えた。

 「今回のHbA1cは8.3%(2016年の基準では8.7%)でした。尿には、蛋白も出てないから合併症も気にしないでいいと思います」

 HbA1cが8.3%。血糖値コントロール目標7.0%から見れば「不良」だ。けれど仕事と共に活きる1型糖尿病の僕の現実に照らせば「中の下」ぐらいだった。

 ふと、今朝の出来事を思い出す。平均8%台のHbA1cでも僕はインポテンツになっていなかったので、今のところは「相関関係はない」と思えた。むしろ、糖尿病との相関関係というよりも、1台でも多くの新車が売れること、つまり仕事の達成度との関連の方が、深く関わっているようだった。お客さんの所で新車契約をした帰り、急に僕の下半身が元気になるのに気がついた。

混 乱

 1型糖尿病を発病してから10年と数ヶ月後くらいの診察だった。合併症の状況については、ほぼ毎回の診察で僕はドクターへ尋ねたし、ドクターもきちんとリプライしてくれた。

 「蛋白も出てないから合併症も気にしないでいいと思います。」120回以上の診察で、ほとんど同じやりとりを繰り返してきた。

 10年も経つと、合併症は、まるで対岸の火事のようになっていった。合併症とは、医学書の中の1型糖尿病で起こるものであり、僕の体の中では、永遠に起こらないように思えた。蛋白は出ていない……という事実は、今朝の出来事による罪悪感を少し和らげくれた。

 「それはよかった」と、僕は機械的にドクターに答えながら、ふと、小さな、小さな、黒いゴミ粒みたいなものが、僕の目の中に浮かぶのを意識した。

 「それと、遠藤さん、夜の生活は大丈夫ですか?」

 突然、主治医は僕の今朝の行為を見ていたかのように、僕に聞いた。僕は控えめに混乱した。

思考停止

 ドクターカラ、キワドイシツモンガトンデキタ。
 ドウシマスカ?

 → コタエル
 → ニゲル
 → カンガエル

 僕は、しばしカンガエルを選択した。

 普通の、健康の、23歳の、男(いや女性も)だったら、かくも白い巨塔の診察室で、社会的ヒエラルキーの高いドクターと、ヨルノセイカツについて話をすることはないだろう。朝から、自分で、インポテンツの合併症検査?も兼ねて、自慰行為をすることはないだろう。自分の性生活、いや自分の将来にだって、不安を感じることはないだろう。僕は、机の上に置いてあった聴診器になってしまいたかった。

 診察室の薄いカーテンの裏で誰かが通る音が聞こえた。

 なんと答えればいいのだろうか。

 はい! もう元気すぎて、困っています。今朝も……。白い巨塔の診察室で、そんな恥ずかしいことを言えるわけないじゃないか!

 そして、僕は我に返った。そうだ、ドクターの質問は「夜の生活は大丈夫ですか?」だった。

 「大丈夫です」と恥じらいを隠しながら、ぎこちない笑顔で僕は答えた。

 ドクターは、特に重ねて質問することもなかったので、ありがとうございました、と伝え、席を立って、踵を返し、カーテンを開けて診察室を出てきた。

 しかし、ドクターの質問は、早く帰ろうと会計待ちをする僕の耳の奥に、まだ、そっとこびりついていた。それは、かつて、高校生や大学生だった僕が、授業を受けたときに、そっと心の奥底へ入ってくるような先生や教授の言葉に似ていた。

 

2012年4月からヘモグロビンA1c(HbA1c)は以前の「JDS値」に0.4を足した
「NGSP値」で表わされるようになりました。過去の記事はこの変更に未対応の部分があります。

Copyright ©1996-2017 soshinsha. 掲載記事・図表の無断転用を禁じます。
治療や療養についてかかりつけの医師や医療スタッフにご相談ください。

このページの
TOPへ ▲
このコーナーの
TOPへ ▶